雑記
投稿日 : 2021年8月19日

飛べないアゲハ蝶

飛べないアゲハ蝶の画像

「アゲハちょうが、おにわにいたから、つれてきた」

息子が淡々と報告してきた。はじめは、ああ、そう、くらいなものだった。また虫を捕まえたのね、と。

でも実際につれてこられたアゲハ蝶は、想像していたものとは全く違っていた。

たまたまあった靴が入っていた段ボールに、虫が飛び出ない程度に蓋をちぎって作った簡易な虫かごの中に、彼はいた。 一般的に彼が入る宿は、丁度なかった。 虫かごを保育園に置いてきていたためだ。

ただ、想像と違っていたのは彼がいた場所ではない。

「おにわで、ぱたぱたして、とべないみたいだったの」

彼は「飛べなかった」。

息子がつれてきたその日、台風でもないのに風雨が凄まじい日だった。外にいる虫や鳥たちは大丈夫なのかな、と子どもたちと話をしていたところだった。私はきっと飛ばされないように影に隠れているよ、おうちに帰っているよ、などと話をした。

しかし、彼は安全な場所に帰れなかった一人のようだった。

恐らく台風並の風雨に巻き込まれ、軽い体でここまで飛ばされてきたのだろう。その過程で翅を損傷して、自力で満足に動けなくなった。

翅は雨に濡れ、折れ曲がってしまっている。必死にもがいてはいるが、地べたをはい回るだけで宙に浮くことは決してなかった。

「しばらく、おうちにおいておきたい。そとにかえしたら、あめにぬれちゃうから」

確かにその通りだし、何より彼は飛べなくなってしまった。自然界に戻したら自力で食事もとれずに死を迎えるか、何者かに捕食されるかだろう。

天気が回復したら野に放つ、そう息子と約束をした。

そう約束しながらも、私は「このまま段ボールの中で命を終わらせてしまうのではないか」と思っていた。

バタバタと元気よくもがいてはいるものの、捕獲の時点で相当弱っているのかもしれない。そもそも蝶はそれほど長生きできる生き物ではないはずだ。

息子が庭に咲いていた「プリムラローズ」という花を入れた。しかしその蜜を吸うのか、そもそも花に吸えるほどの密があるのかはわからなかった。

捕獲した初日。彼は箱の中でおとなしくしているようだ。たまに箱の蓋を開けるとバタバタと翅を動かすのが見えた。一応は逃げようとしているのだと思う。外は嵐だからむざむざ外には出せない。翅が乾いたらもしかしたら飛べるようになるかもしれないと密かに期待していた。

2日目。まだ外は嵐だ。彼は変わらず箱の中でおとなしくしているようだ。初日と同じく、箱のふたを開けるとバタバタとしている。
翅は完全に乾いているようだったが、相変わらず翅は折れ曲がっていて飛べないようだった。蝶の翅独特の、艶やかな湿り気とでもいうのだろうか、が全くなかった。摘まんでよくみてみると鱗粉がほとんどない上に、翅は乾いていた。おまけに片方の翅に小さな穴が空いていた。こうなるともう飛ぶことは絶望的だ。
また息子が「あたらしいごはんだよ!」とプリムラローズの花を摘んできて入れていた。濃い桃色と橙色が彼を彩っているかのようだ。庭に今咲いている花はこのプリムラローズしかなかった。この風雨でミニひまわりは枯れてしまった。

3日目。この日もまだ外は嵐だった。彼はまだ生きていた。相変わらず蓋を開けると逃げようとするのか、バタバタと翅を激しく動かすする。
夕方には風は落ち着いていたが、雨は依然強いままで、息子が「外に出さない」と言い張った。私も飛べない彼を雨の中放り出すのは…と思っていた。

4日目。まだ雨が残っていた。この日は保育園へ登園したので、そのまま虫かごを持って帰ってきて彼をそちらへ移すことにした。虫かごのなかに止まる場所があればいいかも、と庭に植えたオリーブの細く若い枝を数本拝借して入れた。息子がまたプリムラローズの花を摘んできて入れ替えた。透明な箱に移動した彼は、視界が開けて少しは気分転換になったのだろうか?

5日目。しつこく雨が降っている。今日も野に放てない。近くを通ると翅をバタバタさせて応えているのがよくわかる。透明な箱になったので彼の方もこちらがよく見えるのだろう。

6日目。朝起きたら雨だった。まだ野に放つには早い。今日で彼が家に来てから6日目だ。
彼はまだ生きている。透明な箱の中、時折思い出したように翅をばたつかせる。特別弱っている様子はない。
プリムラローズの花の蜜を飲んでいたのだろうか?それとも他の蝶と違って飛べないがゆえにおとなしくしている時間が長く、体力を使わないからまだ生きているのだろうか?
蝶は長生きできない、という知識を持っていた私には6日目を迎えても生きていることが衝撃だった。

恐ろしい風雨が過ぎ去った後、夕方は晴れ間が広がった。久々の太陽だった。

保育園から帰ってきた息子に、蝶を外に出してあげようと伝えた。息子は少々渋っていたものの、最終的には了承してくれた。

彼を箱の外に出した。翅を必死でばたつかせているのがわかるか、やはり飛べないようだった。外に出たところで彼は長く生きられないだろう。それでも彼は箱の中で命を終えるよりも、外の世界にいた方が良いと思った。箱の中にいてもこちらでできることはほぼないのだから。

息子もどこかでそれをわかっているようで、「ばいばい」と、庭の中では最も風雨を避けられるだろうオリーブの樹の根元に彼を置いた。

外に出た彼はどうするのだろう。翅をばたつかせて、地を移動してどこかへ行くのだろうか。

―翌日、7日目の未明。
嵐が来た。風雨に加えて雷も加わっていた。寝ていたところ、音で目を覚ますほどだ。
隣で寝ている子どもたちが起きて泣かないか心配したが、幸い目を覚まさないで眠っていたようだ。
音で眠れない中、私は彼のことが心配になった。
未明にこんな嵐になるなんて思わなかった。飛べない彼は大丈夫だろうか。凄まじい風でどこかに飛ばされて痛い思いをしているのだろうか。
彼はまだ透明な箱にいたままの方がよかったのか…?

陽が昇る頃、雨雲は消えて代わりに青空が見えていた。

「きのうおそとにだしたちょうちょ、だいじょうぶかな」

息子が心配する中、私はさほど心配していないふりをした。

「なんとかしているんじゃないかしら?」

心の中では心配で仕方がなかったくせに。

朝の支度を終え、息子は庭に出た。少ししたら息子の声が聞こえた。

「ちょうちょ、いたよ!」

声に応じていくと、彼は、庭の中の、コンクリートの壁の間にいた。全身雨で濡れていて、相変わらず翅は曲がっていて、 見ただけでは全く動かない。もしかして…

そんな私の思いをよそに息子が蝶をつついた。また翅をばたつかせた。昨日まで見ていた彼と変わらなかった。

「おはなのところに、おいてあげるね」

息子がプリムラローズが咲く葉の上に彼を置いた。彼は翅をばたつかせて葉から転がり落ち、それを息子が拾い戻す…そんな攻防をしばらく続けた後、観念したのか彼はおとなしく止まっていた。

「いってくるねー」

彼にそう声かけながら、息子は登園していった。

彼は飛べない。そう遠くへは行けない。だから夕方になっても、明日も、探したら庭にいるのかもしれない。

飛べないアゲハ蝶は、残りの生をどのように送るのだろうか。
もし家の庭で終えているのを見つけたら、そのときは土に埋めてあげようと思う。